講師の中野さやかさんは、日本学術振興会特別研究員を務め、上智大学で教壇に立ち、中東・アラブの政治史、文化史を専門領域として研究されている。冒頭の発言、配布されたA4裏表7ページの講義資料と年表、それは正に高度な大学の授業、そのものでした。
「ナディーム」とは、アラビア語で「飲み仲間、飲み友達」のことである。アラブでは、王侯貴族の酒宴に、著名な詩人たちが侍り、称賛詩を捧げる風習があった。この風習は、禁酒を命じるイスラム教の成立後は途絶えたが、ウマイヤ朝から復活し、その後のアッバース朝では多様な文化人たちがカリフの「ナディーム」として、宮廷に侍った。では、なぜこの風習が、イスラム支配の下で復活し、時代や地域を超えて継続したのであろうか。
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ウマイヤ朝からアッバース朝へ:アラブからイランへ
ムハンマドは632年に亡くなったが、イスラム共同体はカリフ(ムハンマドの代理人)が政治的宗教的指導者となった。ムハンマドの教友や親族が選挙によって選ばれ4代続いた(正統カリフ時代)。アラブ全域からペルシャや北アフリカまでを征服して、イスラム共同体は広大な地域を支配するようになったが、権力闘争や内紛を招くようになった。第4代カリフのアリー(ムハンマドの従兄弟であり娘婿でもある)はムアーウィヤによって661年に暗殺され、ムアーウィヤがカリフを名乗った。選挙ではなく武力でカリフの位を奪い取ったムアーウィヤは、息子にカリフを世襲させた。こうして始まったイスラム初の王朝のことを「ウマイヤ朝」(661年―750年、首都ダマスカス)と呼ぶ。
イスラム教の教えでは、「信者ムスリムはみな平等」である。しかし、ウマイヤ朝ではアラブ・ムスリムの特権的支配が行われた。イスラム教の支配地域に組み込まれたペルシャ人や北アフリカのベルベル人は、「改宗すれば税金が安くなる」はずであったが、それでも、アラブ人よりも重税を課せられた。そのために非アラブ系の不満が高まり、イラン系ムスリムを中心とした勢力が、ウマイヤ朝を倒して、750年にアッバース朝が誕生した。ムハンマドの叔父の子孫がカリフとなった。
アラブであったアッバース朝のカリフは、非アラブ系ムスリムと共に新体制を築き、762年には新首都としてバグダードの建設に乗り出した。そしてアラブの特権的支配を改めるとともに、カリフの権威を高めるために、かつてのペルシャの大帝国であったササン朝の皇帝を模し、イラン系の人たちを登用した。こうしてウマイヤ朝の「アラブ帝国」から、アッバース朝の「イラン的王朝」へと変わっていった。
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アブー・ヌワースの詩に見るアッバース朝社会の飲酒状況
砂漠の民アラブの文化よりも、イラン文化は優れているという優越を主張するシュウービーヤ運動がアッバース朝で台頭し、あからさまに反イスラム的表現を用いるザンダカ主義も興った。当時の有名な飲酒詩人アブー・ヌワース(750年―814年)は、ハラーム(イスラム的禁忌=ハラールの反対)である男色や飲酒を公言した詩を数多く残している。
大っぴらに酒を注いでくれ、そして俺に言ってくれ、それが酒だと。
こそこそ注いだりするな、大っぴらにしろ。
酔いに次ぐ酔いが無ければ、人生は無い。
酔いが長引く者には、憂き世は短くなる。
お前が俺を素面だと思ったって?そんなの俺のペテンさ、
酔って呂律が回らなくなることこそが、俺の稼ぎ出すもの。
お前が愛している者の名を告げろ、あだ名でごまかしたりするな。
悦楽を隠す帳があったら、何も良いことはない。
モラルをぶち壊すには、恥知らずにやらなければ、意味は無い。
いつだって恥知らずには、イスラムへの不信仰が付きまとう。
モラルをぶち壊す輩は、額が満月のようで、花々のような星が取り囲む(輝かし
い美青年だ)。
アブー・ヌワースの詩には、飲酒を称え、イスラム信仰を否定するこんな表現もある。
- 酒を注いでくれ。俺は最後の審判など信じていないから
- 俺と俺が愛するもの(酒)を放っておいてくれ。そして最後の審判の日には俺を海
に投げ入れればいい
- モスクなど礼拝をひっきりなしにして、そこに住み着きたがるような連中に任せ
ておけ。酒を注いでもらえるようにお前は俺達と酒屋の周りを回ろう!(ちょう
ど巡礼者達がカアバ神殿で黒石の周りを回るように)お前の神は、俺達の酔いを
呪ったりしない。むしろ俺達の祈りを呪うだろう。
このようにイスラムの信仰の柱である最後の審判を否定する詩人は、アブー・ヌワースが最も有名であるが、他にも様々な詩人たちが詠んでいた。その中にはイスラム法で人々を裁く裁判官もいた。こうしたイスラム的規律の弛緩が起き、最後の審判や巡礼を否定し、侮辱するような世俗的な価値観が広まったのは、アラブに対してイランの優越を主張するシュウービーヤ運動から、アラブ・ムスリム、ひいてはイスラム自体の否定へつながったことも指摘できる。それに加えて、ササン朝やギリシャ、インドの文明が導入されたことも理由として挙げられる。アッバース朝初期に、政治的社会的影響力を持ったササン朝ペルシャの文化は、ゾロアスター教(二元論)を基礎としていた。ソクラテス、プラトンといったギリシャ哲学や、インドの古典なども盛んにアラビア語に翻訳された。このような多神教地域の高度な文明が人々に影響を与え、一神教的世界観に対する疑問が広がっていった。
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アッバース朝が「イラン的王朝」から「イスラム帝国」になるまで
アッバース朝は蒙古の襲来によって1258年に滅びる。しかしすでに946年には、西北イランに成立したブワイフ朝がバグダードを占領し、アッバース朝カリフの権威を利用し、「大アミール」と称してイラク、イランの支配が始まった時点で、アッバース朝カリフは実権を失った。その支配は形式的なものにすぎなくなったとはいえ、その後も300年にわたり宗教的権威は保ち続けた。初期の「イラン的王朝」のままであれば、実権消失とともに、アッバース朝は滅亡していたと思われるが、イスラム教の世界では「カリフは政治力・軍事力を持たなくても、預言者ムハンマドの後継者であり、われわれムスリムの代表である」という認識が広がっていた。アラブ人による支配である「アラブ帝国」ではなく、異民族をも含めた「イスラム帝国」の時代に入っていたのである。
では、「イスラム帝国」の認識はどのようにして生まれたのであろうか。教科書的には、「イスラム法学が整備され、4法学派が成立した。そしてカリフがイスラム法を用いて、諸民族を統治した」と理解されている。実際には、イスラム法学の発展はカリフ主導ではなく、市井の法学者によって行われ、カリフと法学者は対立することもあった。
イスラム法の法源は、@コーラン、Aハディース(ムハンマドが預言者になった610年から632年に死去するまでの言行録)である。コーランは、650年に3代正統カリフ・ウスマーンによって正典化されたが、ハディースの編纂は、アッバース朝下で本格化した。ハディースは、ムハンマドが啓示を受けてから死去するまでの22年間の言行録なので膨大な量があり、編纂が本格化するまでに100年以上間があいたので、偽造されたものも多かった。では、何が正しくて、正しく伝承されたものは何なのか、それを極めようとしたのが法学者である。ハディース編纂を行った法学者たちは、ムスリム知識人のネットワークであり、権力を有する組織ではなかった。またカリフからの統制も受けていなかった。
ハディースが編纂された9世紀から10世紀にかけて、現在でもスンナ派にとって最も権威があるハディース6書が編纂された。また8世紀末から9世紀にかけて、著名な法学者を創始者とした法学派が4つ成立した。この4法学派は、コーランとハディースを基本としているが、多少の差異がある。飲酒に対する刑罰が鞭打ち80回であるという点は一致しているが、ハナフィー派は酩酊自体が罪であり、飲酒自体は罪ではないとする。一方マーリク派は酒臭い息を吐いていたので鞭打ちを行った、また空の皮袋を持っていたので(当時皮袋で酒を発酵させていた)、飲酒をしたと見なして鞭打ちを断行した、と9世紀の史料には記録されている。
イスラム法の整備は法学者が主導していたが、一度カリフが介入したことがある。813年に兄弟との内乱を制してアッバース朝7代目のカリフになったマームーン(786年―833年)である。彼はイスラム神学の一派であるムウタズィラ派を国教化した。ムウタズィラ派は「唯一無二の創造主アッラー」を理論的に突き詰め、創造主アッラーとその他の被創造物を徹底的に分断した。「アッラー以外の全てのものはアッラーが創造した」という思想は、イスラム以前の先進文明もアッラーが創造した世界の構成物として、一定の価値を持たせた。マームーンはムウタズィラ派を国教とすることで、「創造主アッラー」の概念をギリシャ諸学やササン朝ペルシャの文化の上位に置き、イスラムと先進文化の融合をめざしたのである。
しかしムウタズィラ派は、アッラーの唯一性を突き詰めることによって、コーランの永遠性も否定した。スンナ派は、コーラン(本そのものではなく、内容)は「アッラーの言葉」としてアッラーと同じく永遠性があると見なしていた。しかしアッラー本体以外の何者にも永遠性を認めないムウタズィラ派は、コーランもまた被創造物であるとして、その権威を否定した。ギリシャ哲学の弁証術の影響を受けた論理的究明の果てに、イスラム的要素(コーランやハディースの権威)への否定にまで踏み込んでしまい、これに対して多くの法学者や民衆は激しく反発した。
ムウタズィラ派国教化に反対した法学者や民衆が重視していたのがハディースである。ハディースはムハンマドの日常生活の記録が含まれる。このハディースの編纂が進み、権威あるハディース編纂書が市井で読まれることによって、多くのムスリムが日常的にムハンマドを模倣するようになった。日常的なイスラムの実践である。ハディースに従うことは義務ではなく、より高次のイスラム実践、敬虔さと見なされた。
このように同じイスラムの思想でも、ムウタズィラ派は理論的にアッラーの唯一性を突き詰めるあまり、コーランやハディースの権威も否定した。その一方で、法学者や民衆は編纂されたハディースから、日常レベルでムスリムが従うべき規律・慣行を形成していった。
ムウタズィラ派と法学者の違いは非常に大きかったが、その差異はイスラムの信仰とは何かという問題と関わっていた。この問題は、@行為とA内面のどちらが信仰の核であるのかというものである。信仰が行為であるならば、偽装することもできるし、偽善者が敬虔な信者とも見なされる。また厳格な戒律主義に陥る可能性もある。一方ムスリムの内面はアッラーのみが見ることが出来る領域であり、他のムスリムは立ち入れない。内面のみを重視すれば、ムスリム同士の横の連携やムスリム社会の規律が弱まる可能性もあった。ムウタズィラ派は行為ではなく内面性を重視する思想であり、そこにギリシャ哲学の弁証術の影響を受けて、人間の理性を重視する方向へいった。社会の規律よりも人間の自由を重視した。一方でハディースを重視する法学者は規律を重視する傾向が強かった。
マームーンは、ムウタズィラ派の国教化によって、先進文化とイスラムの融合を図ったが、逆に法学者と民衆の抵抗に合い、ムウタズィラ派の国教化は失敗した。その後は、法学者達が主導してイスラム法を整備した。イスラム法が整備されるにつれて、ササン朝ペルシャやギリシャ哲学の影響力も弱まり、ザンダカ主義も下火になった。また「預言者ムハンマドの後継者であるカリフがイスラム法の施行者たるべき」という認識がムスリムの中に浸透していった。946年にブワイフ朝がバグダードに入城した時点で、アッバース朝カリフは実権を喪失したが、「イスラム法の施行者であるカリフ」という認識によって、その後300年間宗教的権威として存続した。アッバース朝が「イスラム法の施行者たるカリフが諸民族を統治するイスラム帝国」となったのは、カリフ主導のトップダウンではなく、民間の法学者を中心とするボトムアップの形であったと言える。
王朝樹立時にアッバース朝カリフが権威を確立するために利用したのは、ササン朝ペルシャの伝統であり、この時点ではアッバース朝は「イラン的王朝」であった。しかしカリフ政権が政治的に衰退していく9世紀後半から10世紀にかけて、イスラム法整備と共に「イスラム法の施行者であるカリフ」という認識が民間に浸透するにつれて、「イスラム帝国」へとなっていったのである。
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カリフのナディーム、ハムルからナビーズへ、「ナディームの作法」
8世紀後半に造られたバグダードは、イラン・イラクを中心に北アフリカ、中央アジアに広がる帝国の中心となり、空前の繁栄を誇っていた。モスクを中心に文芸に秀でた人々が活躍し、市井の著名人がナディームとして宮廷へ招聘された。カリフは誰もがその放埓と反イスラム的姿勢を知るアブー・ヌワースをナディームとし、宮廷での飲酒も周知のことであった。しかし9世紀後半に入り、イスラム法学者の影響力が高まると、宮廷でも酒宴を大っぴらに開くことを憚り、「カリフはこっそりと酒を飲む」ようになった。宮廷の酒宴が密室化してくると、市井の著名人をリクルートすることもできなくなり、ナディームの世襲化が始まった。ハムドゥーン家、ムナッジム家は9世紀半ばから100年にもわたってカリフのナディームを世襲し、宮廷の機密に通じる重要人物になっていった。これによって、10世紀には、カリフ政権内部に影響力を持ちたい軍事政権がナディームを取り込もうと試みた事件もおきた。また軍事政権の宮廷は、アッバース朝宮廷を模倣して儀礼を整えたので、ナディームは軍事政権の宮廷でアッバース朝宮廷の情報を伝える役割を負うようになった。
イスラム法の整備が進むにつれて、カリフが飲む酒も変化していった。コーランでは「酒」を飲むことを禁じているが、ムスリム社会では二種類の酒が存在した。「ハムル」と「ナビーズ」である。「ハムル」は果汁を発酵させたもので、これがハラーム(非合法)であることは、法学者は一致している。果汁の段階や酢になったらハラール(合法)である。「ナビーズ」は乾燥果物(ブドウ・イチジク・ナツメヤシ)を漬けた水である。密閉容器で一定期間漬ければ発酵する。発酵状態が分かりにくく、合法か否かが法学者の間でも意見が分かれる。
ハディース6書には、全ての酩酊させるものはどれ程少量でもハラームとなっており、ハンバル派とマーリク派は、ナビーズを飲むことを禁止する。しかしこのようなナビーズ禁止論に対して、9世紀の法学者イブン・クタイバは、発酵し酩酊する可能性がある飲料を一律禁止すれば水しか飲めなくなり、それはイスラムにそぐわないと反論している。膨大なハディースの中には、ハディース6書には取り上げられていないが、ムハンマドやムスリム第一世代がナビーズを飲んでいたというものがある。イブン・クタイバはこれらのハディースをもとに、ムハンマドやムスリム第一世代が厳格な戒律主義ではなく、自由に生きていたことを論じた。彼が特に非難していたのが、他のムスリムに自分の敬虔さをアピールする行為である。「顎鬚を胸まで伸ばし、人前では水しか飲まない」という行為を偽善であると厳しく断じている。このようなイブン・クタイバの理論にも、イスラムの信仰が行為か内面かという問題が関わっている。彼の理論では、行為を重視しすぎると、アッラーではなく他のムスリムの目を気にして敬虔さをアピールするようになり、また他のムスリムに、水しか飲まないような規律を押し付けることにもなる。酩酊する目的で発酵の進んだナビーズを飲んだとしても、2名のムスリムの目撃証言で以って立証できなければ裁くことは出来ない。ムスリムの内面はどんな法学者でも覗くことはできないのだから、ハラームを犯すつもりで発酵の進んだナビーズを飲んだのかどうかは、ムスリム個人とアッラーとの領域であり、最後の審判でアッラーが裁く問題となる、と論じる。発酵状態がよく分からないからナビーズを一律に禁止することは、厳格すぎる戒律を他のムスリムに押し付けることになるので、ナビーズを飲むかどうかは個人の判断に委ねるものとする。規律は大事であるが、それは押し付けるのではなく、ムスリム個人が自発的に守るものとする立場である。
9世紀半ば以降イスラム法が整備され、法学派が民間に浸透したが、高名な法学者であるイブン・クタイバの主張から分かるように、社会全体が厳格な戒律主義に陥ることはなく、ナビーズは許容範囲とされた。このような社会のイスラム化に合わせて、カリフがナディームと飲む酒は、ハムルからナビーズへと変化していった。またナビーズを飲むことを前提とした上で、ナディームの理想像を論じる「ナディームの作法論」が提出されるようになっていった。
この「ナディームの作法論」は、アラビア語では9世紀から13世紀まで各地で書き記されている。これらの作品では、ナビーズがハラームであるとする人々の意見を紹介しつつ、禁止されるべきではないというイブン・クタイバと同じ立場に立つ。しばしば著者が、同時代の支配者とナディームとの酒宴が品位に欠けると批判し、それが「ナディームの作法」を執筆した動機であると明言している作品もある。どの作品もナビーズをハラールの範疇とした上で、ハラームへと陥らないように、ナビーズを介したムスリムの社交がどうあるべきかを論じている。扱うテーマは、主人宅での食事の作法、ナビーズを飲む作法、会話、楽器の演奏方法、主人の妻妾への態度、チェスやバックギャモンの作法など、多岐に亘る。これらの作品からは、「ナビーズを飲むこと」がムスリムの規範の一部、備えるべき教養の一部として組み込まれたことが分かる。それぞれの作品は、著者が生きた時代と地域における「ムスリム文化人」論としても評価できる。
まとめ
750年にアッバース朝が成立すると、ウマイヤ朝でのアラブによる支配体制が解体され、イラン系ムスリムが台頭した。それによってアラブ文化に対するイラン文化の優越を誇るシュウービーヤ運動が起こり、さらに反イスラムであるザンダカ主義も隆盛した。この時期の飲酒文化では、コーランで明確に禁じられているハムルが飲まれており、飲酒行為が最後の審判の否定とともに語られていた。これには、ササン朝ペルシャやギリシャなどの多神教地域における先進文化の導入によって、一神教的世界観が揺らいだことも関係していた。この状況に対して、マームーンがムウタズィラ派を国教化することにより、イスラムと先進文化との融合を図ったが、法学者と民衆の抵抗にあって挫折した。その後は民間の法学者が主導して、ハディース編纂を通じて、ムスリムが日常的に従うべき慣行・規律が形成されていった。これによりザンダカ主義は下火になっていった。しかし「イスラムの信仰とは行為だけではなく、ムスリム個人の内面も大事であり、そこはムスリム個人とアッラーの領域であり、他者が踏み込むべきではない」という思想によって、厳格な戒律主義に陥ることはなかった。そのため、9世紀後半に社会のイスラム化が進行しても、飲酒文化はイスラムに沿う形で変容しながらも継続していった。明確なハラームであるハムルは忌避されるようになり、ナビーズがハムルの代替品として飲まれるようになった。しかしナビーズは禁じられなかったものの、推奨されない飲み物であったので、「ハラームへ陥らないように飲むべき」とされ、ナディームの作法論が記されるようになった。そこでは、「ムスリムとして正しい飲み方」が社交全般とともに語られている。「ナビーズを飲む」という行為は、「ハラームを避ける」名目で論じられる内に、ムスリムの規範の一部に組み込まれるようになった。これこそがイスラム特有の飲酒文化である。
中東イスラム圏では、ウマイヤ朝からオスマン朝まで、地域や時代を通じて支配者に多様な文人たちがナディームとして侍るという慣習が存在した。禁酒を定めたイスラム支配地域でこのような慣習が継続した理由は、それがイスラムに沿う独特の飲酒文化であったためである。そしてそのイスラム特有の飲酒文化は、9世紀を境に起こったイスラム法学の発展と神学論争を基礎としたアッバース朝社会の変容とともに形成されていったものである。
(文責:目魁 影老)